マンチェスター国際学会参加とアイルランド旅行記



安孫子誠也 



 20137月16日(火)出発、8月7日(水)帰国。22日間の、おそらくは我が生涯最後の海外単独旅行である。71歳の身としては、出発前から体調の変化、時間間違え、道間違え等を心配していたが、無事帰国することができた。アイルランドでは日本人には全く出会わず、最後の頃は日本語がしゃべりたくてたまらなくなっていた。

 国際学会開始前の7月17日〜21日は、Newcomen Summer Meeting なる産業遺産見学会に参加した。国際学会ホームページで参加募集を見たので、日本人も大勢参加しているだろうと思ったのだが、参加しているのはEnglish Speaking の方々ばかりで、それもかなり技術史に詳しい方々のようだった。見学したのは、水力機関・蒸気機関等を利用した工場の復活現場、現在も利用され復活が進められている運河とそのクルージング、SLの乗車体験と駅舎兼博物館、マンチェスター市内の倉庫遺産や慈善病院復活現場、などである。少年工などヴィクトリア時代の貧困層の話が興味深かった。英語の解説が聞きとりにくくて苦労したが、オーストラリアから来た女性もアクセントが違うので聞き取りにくいと言っていたので、多少安心した。

 21日午前までが見学会で、午後ホテルを移動し、夕方、国際学会受付を済ませてから歓迎レセプションがあった。会場はマンチェスター大学の博物館だったので、ワインとナッツを頂戴した後は博物館見学をしていた。多数の動物標本の展示が印象に残った。

 翌22日が学会初日で、私の発表の日だ。朝、オープニング・セレモニーがあり、その分だけ私の発表時間は短くなったようだった。私が発表したのは、「S105.ボーア原子百年」という学会主催のシンポジウムで、1913年にボーアの原子構造論が発表されたのを記念したものだ。私は午後の最初のセッションで「前期量子論への石原の貢献、および日本における量子論の受容」という題で発表した。時間がないのを言い訳にして、スライドを読み上げてお茶を濁したが、詳しくは読んでほしいと言って置いておいたハンドアウトは無くなっていた。

 発表内容は、石原が、ボーアの量子条件に反対して独自の量子条件を発表したことや、それを用いてゾンマーフェルトよりも先に水素の楕円軌道を扱ったこと、1911年に長岡半太郎が「量子」という訳語を導入してプランク論文「エネルギーと温度」を翻訳し、石原がX線・γ線の粒子説を紹介して光量子論との関連性を指摘したこと、既に1927年に量子力学論文の和文抄録『物理学文献抄』(岩波書店、1927)が出版されたことなどである。二三質問があった。発表で石原の1911年論文「光量子論への貢献」について触れたが、その論文はこれまで欧米に紹介されたことがあったかと聴かれたが、それは東北大学の紀要創刊号に発表されたので、今回が初めてであり日本人でも読んだ人は少ないと思うと答えた。また、石原の貢献のその後の日本物理学へ影響について聴かれ、石原は1920年頃、科学ジャーナリズムに転じたが、その出版物は湯川・朝永を含め多くの日本人に読まれたと答えた。(安孫子「石原純の前期量子論史における位置づけ―ボーズ統計、ド・ブロイ位相波、アインシュタイン量子条件に類する先駆的研究」『科学史研究』第49巻、2010年秋、143-151頁参照。)

 翌23日は「S106.現代物理学における哲学の役割」というシンポジウムを聴講した。盛んに議論がなされていたが、残念ながらあまりよく分からなかった。夜はレセプションを欠席して、「チューリングマシン・オペラ」なるオペラを観に行った。マンチェスター大学に所属していた天才チューリングがゲイだったことがばれて苦労した、という内容だ。何やら気持ち悪かった。24日午前は、パルサーが発見されたジョドレルバンク天文台の見学に行き、午後は、日本へ送り返す重い荷物をもって郵便局捜しでマンチェスター中を歩き回るはめになった。地図には大学内にあることになっていたが、実際にはなく、シティセンターのピカデリー広場まで歩かされた。送料が高いなと思ったものの言われるままに荷造りして発送したが、後で船便にするのを忘れていたことに気付いた。戻って、船便の案内をしなかったのが悪いのだから、船便に変更してくれと言ったが、頑として受け付けなかった。日本のように民営にすればよいのにと思った。25日は、チャットワース・ハウスという貴族の館を見学に行った。キャベンディッシュ文書が保管されていると聴いていたので、どこにあるのか聴いてみたが別のとことろで保管しているという答えだった。庭園で東海支部会員の奥田謙三氏と一緒になり、広大な庭園を奥の方まで歩き回った。原生林の中のようだった。

 翌26日、列車とフェリーでアイルランドに向かった。夕方ダブリン港に着いたが、土砂降りの雨で、タクシーが一向に来ず雨の中を一時間ほども待たされた。後で知ったのだが、道路が氾濫して車が通れなかったとのことだ。うっかりシティセンターから20分ほどもかかる所にホテルをとってしまったので交通は不便だった。ただ、その分、ホテルは立派で快適に泊ることができた。27日は、ニューグレンジとボイン渓谷なるツアーに参加し、古代・中世の遺跡を見学した。1690年にカトリック支持派がプロテスタント支持派との戦いに敗れたボイン川古戦場が印象的だった。28日夕方、ダブリンを後にし列車でゴールウェイへと向かった。29日と30日は、イニッシュモア島ツアーとモハーの崖ツアーに参加した。どちらも大西洋に面した断崖絶壁が壮絶だった。ただ、たくさん歩かされて閉口だった。

 翌31日、ゴールウェイからドネゴールへバスで4時間移動。ドネゴールではバス停がホテルの前なので助かった。広くはないものの、エスケ川を見下ろし古い調度のある気持ちのいい部屋だ。夜は隣のホテルのプールで泳ぎ、そこのバーで魚料理を食べビールを飲んだ。翌日は土砂降りの雨だった。

 翌82日、バスでデリーへ。こじんまりしたB&Bに泊る。デリーは城壁で囲まれた古い町で、カトリック系とプロテスタント系が混在している。両者の衝突は、1688-9年のデリー包囲、1972年の血の日曜日などの事件を起こした。現在はプロテスタント系の英国領である。3日、バスでベルファストへ向かい、5日、海岸に六角柱の岩が立ち並ぶジャイアンツコーズウェイに行く。6日航空機でベルファストを発った。